「座右の銘」は「君子危うきに近寄らず」と、言いたいところだが。

どこの肉親間でも起こり得る珍しくもないことなのか。

兄は兄嫁に完全に洗脳されてるフシがあり、前記事での母親の不調の訴えにも冷酷に

反応したように、かなり初歩的な善悪の判断もできなくなってるようなのだ。

2013年の言い争いの時も、いや、それ以前から意味不明な点が多々。

兄嫁は父母の年金はおろか、昨年11月まで勤めていたデイケアサービス(!)での

母親の給料まで管理していたようで、父母は自由になる金が無かったようなのだ。

にもかかわらず2013年当時、母は俺が会いに行くたび俺に金を無心していたのだから、

兄嫁、そして兄の非道さは呆れ返るばかりだ。

そこで父母の生活費の内訳の不透明さを兄に問い糺したことが結果的に、

母親が他界するまで会いに行かなくなった原因な訳だけれど。

(中途半端に関わったら兄夫婦への不満が募るばかり。

兄夫婦からこっちで父母を取り戻して、全ての面倒をみる以外に父母と関われる

状況ではない、と判断したわけです。)

 

年金と生活保護を合算すれば父母は自活できてたはずだし、足の悪い母親に障害者認定を受けさせることも可能だったはずだ。

もっとも、仕事が大好きだった母親自身が、生活保護を受ける資格を得たいとは

望まなかっただろうけど。

 

でもなぁ、あの足の悪さは相当で、車椅子を使っても不思議じゃないほどだったし、

少なくとも杖くらいは必要だったように思う。

 

その母親にアルツハイマーの父親の面倒を看させた上に、母親が転倒して体調不良に

なった一年前から介護の仕事もできなくなり、「息苦しい...」と訴えれば

「入院、手術、親父の老人保養施設入所は無理。」かい。

 

どう考えても狂ってるでしょそれ。

 

挙げ句の果てに「今回の母親の死のとどめを刺したのは俺(兄)と妻とお前(筆者)だ」

 

だと。

 

いや違うだろ?

 

もちろん俺にも充分責任があるのは認めるが、「とどめを刺した」のは兄夫婦、

お前らだよ。

 

そんな正論をいくら本人たちにぶちまけたところで埒があくはずもなく、今後も

その強い恨みを噯気にも出さず、当たり障りなく付きあって行くしかないのだが。

 

それが死ぬほどイヤだからこその先日の記事、

 

エスケイプ」

 

を書いたのだけれど。

 

まぁ、この年末の忙しさのドサクサで、会社でのヒマ上司たちの嫌がらせは

加熱する一方なので、「エスケイプ」の時期は幸か不幸か早まるかもしれない。

 

明日許しがたい状況に置かれた時点で黙って帰るとか。

 

めっちゃしてみてぇ。

 

この後悔や悲しみはいつか克服できるのだろうか。

嫁に逃げられた時は傷が癒えるのに1年から2年かかったけど、母の死はくらべものにならないほどに根が深いことはわかっている。

 

前回記事、平成30年の年賀状での母親のメッセージの件は後日こっちから電話して

 

「よそよそしいよ!」「でも嬉しい!ありがとう!」

 

的な感謝の言葉を伝えたことを思い出した。

 

ただそれでも積極的には会いに行かなかった...。

前回の記事で言いそびれたその理由は...

 

正常性バイアス

 

に他ならないと思います。

 

「危なくなったら兄や母親自身から電話がくるはずだからそん時動けば良いや」

 

とか、極端な話、

 

「父母が死ぬはずがない」

 

ってやつです。

 

政治や原発正常性バイアスは馬鹿にしてたけど、こっちのバイアスの方がよほどタチが悪い。

 

「お前が死んだ方がよほど良かったんじゃないか。」

 

実際母親が亡くなってみると、現実を直視せざるを得ないわけで、自分に都合の良い心理状態など作れるはずない。

 

嫁が逃げた時は

 

「あれ?俺は今、鎖に繋がれてないし、自由だよな?」

 

と気づいて、逆にそこから独身を謳歌し始めたのですが、

 

母親の死は、どこにも逃げられる気がしないのです。

 

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親子の関係を2013年からやり直したい。

兄夫婦との言い争いごときでなぜ心が折れてしまったのだ。

金の問題はあるかもしれない。

でも冷静に計算すると、親の世話を優先で考えて4輪のみを維持することはできたはず。

車を手放した、2015年当時夢中だった2輪を手放してでも。

父母が兄夫婦の意向で2017年に新築の市営住宅に引っ越す際に自分も今住んでる

このアパートを引き払って父母と同居する。そこまで出来ればベストだったわけだ。

 

としたら当然この3年弱の間に兄夫婦ともいろいろあっただろう。

でもそれがなんだっていうんだ。

現実に母親が兄の意味不明の判断で死を選んだも同然なんだ。

 

曰く、

 

「入院した際の入院費、手術代をどうする?」

 

アルツハイマーの父親も施設に入居させざるを得なくなり、その費用はどうする?」

 

と、「なんか息苦しい...」と漏らす母親に兄がそういったらしい。

 

俺はさすがに兄がそこまで狂ってるとは気づいてなかった。

迂闊だった。

 

それを知ってればさすがに俺の母親への対応も変わっていただろう。

 

そこで俺に電話してこなかった母親の心境を思うと、生きた心地がしない。

俺の残りの人生は一刻一秒、全て虚しいものに感じてしまう。

 

自死を選ぶつもりは毛頭ないが、一体この虚しさを埋める何があると言うのか...。

 

母親を見習ってその時々の「善き行い」を実践する。

それくらいしか思い浮かばないが、つまり母親はそういう人だったんだと

改めて母親の偉大さ潔さに唸るばかりだ。

ほんとに凄い人だったんだ俺のおっかは。

 

『「人」として当然やるべきことをやる。』

 

それがいかに難しいかはこの馬鹿兄弟を見れば一目瞭然だ。

とても真似できるものではないが、せめて今後のおのれの「規範」とはしたい...。

 

母からの年賀状。

先日より何が主目的かわからない断捨離をしている。

先日というより、以前から漠然と大がかりな片付けをする予定ではいた。

引越しのためか就活のためか終活のためか、そのいずれでもあるし、いずれでもないかもしれない。

 

とにかく、漠然と身軽になりたい気持ちはここ数年募っていた。

それでも重い腰はなかなか上がらず、休日のたび最低限の片付けで終わっていた。

 

きっかけはやはり母の死。

 

11月中旬に逝去して今月1日が通夜、2日が告別式だったので7日、8日の連休から始めたんだな確か。

 

断続的に母を思い出しながら泣きじゃくりながら。

それでもここ数日はかなり落ち着いて来ていたと思う。

 

そして今日も先週の続きから始めて滅多に掃除しない居間のキャビネットの上を整理してたら出て来ちゃったよ平成30年正月に届いた母からの年賀状。

 

「お身体を大切にね」

 

イラスト付きの年賀状に筆ペンで書いたと思われるそのメッセージが添えてある。

 

俺は今後、生きる価値を感じない。

 

というか2011年に嫁に逃げられ、子供もいない俺は

 

「親孝行のみ」

 

がこの世に生まれて来た意義だったのじゃないかって、またまた

 

「自責の念」

 

がぶり返して来てしまった。

 

つらい、つら過ぎるぜおっか。

 

久々に泣きじゃくりながら夕飯食べたよ。

 

はぁ、、、これからの人生どうすればいいのだ俺は。

 

唯一の救いはいつでも父母宅の住む市営住宅の部屋番号を確認できるようにと、

大事にキャビネットの上にその一枚だけを置いていたのだな、ということ。

 

それでも動かなかった理由は次回にでも。

 

「お身体を大切にね」

 

今すぐ迎えに来て欲しいほどに愛おしいおっか様。

 

本当に、本当に、ありがとう...。

 

 

 

 

 

 

 

 

父親が介護施設に。

水曜日12月18日に父親が介護施設に入所した。

結構離れてるので、積極的にバイクで面会に行くことは叶わないだろう。

母親の生前、父親と住んでいた市営住宅

新築時から2年住んでたわけだけど、正直、俺のアパートからも兄夫婦の居宅からも離れていた。

その時点で歯車は狂っていたように思う。

兄夫婦の父母へのスタンスに抵抗を感じ、そこに引っ越す前から父母に会いに行かなくなってた俺が言えた義理じゃないが、なぜ俺のアパート、兄夫婦自身の居宅から近い距離、もっと言えばせめてその中間くらいの市営住宅を借りなかったか?

母親が亡くなったその市営住宅に引っ越すと聞いた当初からそれは思っていた。

それを言ったら金銭的なバックアップを迫られはしないかを恐れていたのか、情けないことにその件で兄夫婦に反駁を加えることはできなかった。

いずれにせよ資金面の援助はできないにしても、バイクオンリーの俺でも難なく行ける距離なら最悪の事態は免れたのではないか。近場であれば逆に俺も積極的に会いに行けてたのではないか。

 

元を正せばそここそが悔恨の大部分を占める。

 

「引っ越し」というチャンスになぜ父母を遠くに住まわせたのか。

そこの相談もなくいきなり自分たちで決めてるし、親の面倒に関して蚊帳の外だったんだな俺は。ここ数年音信不通だった兄夫婦。父母の不幸もきっと伝えてこないだろうとさえ思っていたのに...

 

金輪際、親との絆の本質に悖る行為はしたくないという思いは強い。

親父の介護施設も結構な距離だが、彼岸、お盆、ゴールデンウイーク等、

せめて母親の生前、本来会いに行くべきだったタイミングで面会しに行くつもりでいる。死を賭して人間にとって大切なことを気づかせてくれたおっかさま。

心の底から「ありがとう」と言いたい。

 

 

 

転職。

このブログを始めた最大の動機は己の現状を客観視して今後の人生に於いてその時々の態度を決定すること。

母親の死がなければ気付かなかったことかもしれない。

ただ漫然と日々を過ごし、訳がわからないまま死んでいくのもいいだろう。

だがこのまま生き続けていれば間違いなく足が不自由になり、便もままならなくなり、

食事も一人では困難になる時がやって来る。

 

母親のようにセルフネグレストに陥ればそれはそれで潔い。

しかしそうでなければ...

確実に昨夜うちに泊めた父親のように毎晩オムツを濡らすことになるだろう。

いや、誰かにオムツを取り替えてもらえる保証はないから否が応にもセルフネグレストに陥る可能性が高い...

 

※転職の話は明日以降ここに加筆します。仕事で疲れ果てています。

 

というわけで翌日夜にまたいでの続き...

 

そう、転職ですね。

 

これまでの転職歴は大きく2度。

一度目は30歳、二度目は45歳。来年4月までに転職成功したとして三度目が52歳。

ポジティブな転職、ネガティブな転職。

今までの転職は全て後者であり、とりあえず目先の生活を維持するための給与面と、これと言った特殊なスキルを持ってない自分でも即こなせそうな仕事を選んできた。何がしたいか、何をするべきかは二の次であった。

 

これと言ったスキルを持たない52歳が転職とは、我ながら無謀だとは思う。しかし現在の肉体労働メインの職場に勤め続けたとしても60歳まで体力が持つとはとても思えない。母親と同じ79歳まで生きたとして、死ぬ直前まで働かざるを得ない後進国並みの社会保障を誇るこの日本では、一生糊口を凌げるような仕事を選択、もしくは起業を志向する事は必然なのではないか。

 

何かしら緒はあると思う。それを来年3月初め頃までに見つけ出せるか否か。

そんなことを考えてる時期が、実は一番楽しいんだけどね。

 

 

 

 

 

 

父親初宿泊。

このアパートに引っ越して丸16年、元嫁の弟以外泊めたことなかった。

兄嫁が19:00くらいに連れて来て、ついさっきまでyoutube動画観せっぱなし。

もてなす手段としてはインターネット文化の高齢者への浸透、恩恵を受ける前にアルツハイマーになった彼がいかにも喜びそうな、なんでもありなyoutube動画以外は思いつかなかった。

親父の出身地青森県三戸郡の動画や戦時中の疎開満州動画、

罹患するまで大好きだった海釣り(黒鯛)動画、果ては犬猫好きだったことを見越しての

ペット癒し動画。

23:00前までだいたいそんな感じでしのいだ。

明日朝7:00に兄貴が迎えに来るけど、最後の難関、朝のオムツチェック&場合によっては取り替え。

覚悟はしていつつも、それだけが心配。

いやしかし、アルツハイマーにも色々あるということも知ったな。

17年も前に母親(俺にとっては祖母)が死んだ記憶が完全に飛んでいたり、

いまだに自分が会社に勤めてると信じて疑わない等、独自の時間軸を構築していたり。

普通に会話が成り立ってるようでも所々辻褄が合わなくなってる。

医学の進歩もこの分野は頭打ちなのだろうか。

なにかと惜しいんだよなマイダッド。

ヤフーブログ、サービス終了日。

色々不満もあったけど、失くなるのはやっぱ寂しいな。

ただ、日記を書くだけならこのHatenaってすごくいいと思う。

けどやはり画像や動画、ゲストブックとかに慣れてたせいもあるだろうけど、

トータルバランスではアメブロもここもライブドアも、ヤフブロには劣ってる気がする。

メインはアメブロ、、、とも思ってたけど、ちょっと使い辛いですねあそこは。

ここでひっそりと自分の心の闇を吐露してるくらいが合ってるのかな俺は。

他人の評価を気にするとか、浅ましいにもほどがあるし、

所詮は仮想世界、社会、なわけだしSNS なんてのは。

そういえばヤフブロサービス終了の告知があった時、

まさか自分の母親の死が先になるとは夢にも思わなかった。

人間いつどうなるかわからない。

残りの人生、悔いが残らぬ行動原理を念頭に置きたいところではありますが...。

何は無くともまずは断捨離か。