母親の死にざま。
ツイッターやインスタなど、フォロワーが多数いるSNSだとこう言う話はできないなぁと思う。
少数なら程よいし、誰一人見てないのも悪くない。
今日はオフクロの死について、一歩踏み込んで掘り下げたいと思います。
まず、結論から言うと微塵も納得できない。
心臓に穴の開く病気。
しかし一瞬で開くわけもなく、聞けば「苦しいと漏らしていた」と兄。
そこで病院に行かない?
金がかかるから?
アルツハイマーの父の世話が面倒だから?
だから医者に診せもしないで終わった?
早い話が殺人じゃねーかとも思う。
結果的にああなったのは、母親はある種の覚悟を決め、なすがままに苦しんで死んでいったのではないかという疑問から今回の述懐に至りました。
母親から「苦しい」と聞いた日以降、電話で体調を確認するなどのケアもせず、
数日分の食料を置いていつものように放置。
趣味のマラソンに全精力を傾けて、「推定2週間以上父母を放置。」
(とても兄本人に聞けないから放置期間は推測の域を出ないけど...)
確かに手術するとなったら金がかかるだろう。
親父を診ることにもなるだろう。
だが選択肢は現実逃避の「放置」のみだろうか?
....しかしここで、俺は兄を責める資格はない。
なぜならそんな冷酷な兄夫婦の管理下に置かれていた父母への微力ながらのフォローさえ数年前に諦めたのだから。
携帯のメール履歴を見ると2013年8月に、オフクロたちの経済状況がおかしいことに気づき、(会いに行くたび一万円を貸して欲しいと嘆願された)一度、兄夫婦に突っかかったことがある。
結果、自分が父母を引き取って面倒を看る以外、埒が明かないことがわかった。
だから確かその時以来だ父母に会ってなかったのは。
今回の件に話を戻すと、早い話が兄夫婦は母親が親父の面倒を診ていられる健康状態をそこなった時点で母親を中途半端に見放したわけだ。
それを知った際の母親の落胆と覚悟を思うととてもじゃないがやりきれない。
俺は母親は実質自殺だったと思ってる。
せめて兄夫婦への「当てつけ」がそこに有ったと思えばいくらか気が楽になる気もするけど。
しかしそこで次男であるこの俺に電話をかけてよこさなかった母親の心中やいかに...
と言ったところなんです。
前述の通り不本意にも見放さざるを得なくなった俺に言っても無駄だ、
という思いか、あるいは純粋に兄夫婦への「当てつけ」を完遂するのだ...
と言う思いか。
母の訃音より10日。
ここまで整理しておく。
追記:12月7日(土)
何か自分が書いてるから当然かもですが、明らかに「自分寄り」な内容になってしまい反省してます。色々思い出したこともあるので以下に加筆いたします。
「母親はこの俺に助けを求めたとしても無駄だ、と感じていたとしても、そこには当然「俺への当てつけ」も入るだろう。」こと。
兄と兄嫁と次男であるこの俺への衝撃は他者に比べ極端に大きいことを見越しての諫死。
そして兄は(本人が言ってることが本当だとしたら)何も母親に対し意地の悪いことばかりしてたわけではないフシもある。
曰く、近々母親をデイサービスに通わせる予定で散髪を済ませたばかりだったと。
母親は散髪の仕上がりを兄に褒められて非常に喜んでいたと。
それが本当だとしてもやはりあの、数週間の放置の罪はとても贖えるものではないけどな。
最後に...
毎年気付くわけじゃないけど、ここ数年で何度かあった11月16日の母の誕生日に合わせて電話をして誕生日を祝う「おめでとう」という気持ちを伝えるという行為。今年はふと思い出し、一瞬かけようと思ったにも関わらず、兄に着信履歴を見られてまた何かしら咎められる可能性を恐れたばかりに躊躇し、結局電話をかけずじまいだった俺の後悔は一生残るだろう。それもその、母親が兄に放置された空白の数週間内の出来事でもあるのだから。
続・葬送セレモニーの意義、そして宗教の意義。
なんか今日は1日中きつかったな。辛かった。
仕事が薄い日はしばらくこんな感じでやばいのか。
昨日は割と忙しめだったせいかそこまでじゃなかったのに。
今回の件で葬送セレモニーの意義や宗教の必要性は理解できた。
ただし政教一致だけはいまだに微塵も理解できないし、葬式に金をかける意味も今までよくわからなかったけど、金をかければかけただけ故人の供養、遺族の悲しみを浄化する効果があるような気はした。
宗教は...藁をもすがる思いで母親を生き返らせて欲しいと思ったもの本気で。
この人智を超えた願望は宗教にすがるしかないなと思ったよ。
ここ数年はたまに電話で話す程度だったんだ亡き母親とは。
休みのたび会いに行くのも無理からぬ距離なのに。
その、たまの電話が今後ないと思うだけでも死にたくなるほど悲しい。
母親の声をもう一度だけでも聞きたかった。
そこが一番残念だし、
近いのに何年も会いに行かなかった自分に殺意さえ覚える。
(もちろん会いに行かなくなった確たる理由はあるのですが今となってはそれさえ取るに足らない事のように思えます)
ここまで母親を愛していたとは夢にも思わなかった。
「ギターなんて弾いてる場合じゃなかったんだ」と言う罪悪感に苛まれまして。
今夜は久々にギターを弾いた。
カポ無し8曲
1カポ2曲
3カポ4カポ1曲ずつ
5カポ2曲
楽譜書けないのでそれぞれのカポのポジションでの課題曲を忘れないように日替わりで練習してるんだけど、今日は2カポ以外全部やってしまった。
言っても母の訃音を聞いたその日は確か惰性で弾いてしまっていたけど、ここ5日ほどはさすがに全く弾く気がしなかったので忘れてるか不安だったのも手伝って。
最初「ろっか・ばい・まい・べいびい」弾いたんだけどなんかすごく違和感あったな。
2、3回弾いてるうちになんとか勘を取り戻せたけどね。
ただ今回思ったのは「親孝行」を筆頭に
「人は理性的にやるべきことがたくさんあるはずなので、最優先で自分の趣味に金をかけることはクソダサい」
と言う思いが芽生えた。
いざという時、趣味に散財しすぎて本来かけるべき対象に支払う金、労力がないってものすごく間抜けだもんな。
今更かもですが、俺は今日気づきました。
このブログを始めたきっかけ。
照らすよ51歳の地図。
それから。
今日は忌引休暇ラスト。
正確には忌引休暇は2日間しかとれないらしいので、先週30日土曜日、昨日2日月曜日のみが忌引休暇で、今日3日火曜日は有給休暇。
休ませてもらっててなんだけど、忌引休暇年2日っていまどきある?😅
昨日の今日ではやはりきつかったろうと思う。
いまだに食事(昨日の夕食)を咽び泣きながら摂る状態だったし。
午前中はかかりつけの歯医者に行き、メインの通帳を繰り越しに銀行へ。
その他諸々の些事。
朝一で歯医者に行く際にバイクを発進させてすぐ、駐車場敷地内のやや草深い箇所で立ちゴケ。バイクはタンクパッドがとれたくらいで無傷。俺は右足首をちょっと捻ったのかな?やや捻挫っぽい違和感。母の呪いとは考えないようにしてるしそんな迷信は信じないものの、これで母の死以来、どうしても黄泉の国の母からのメッセージとしか考えられない事象3件目です。それは後日紹介しますが。
閑話休題、、、
さっき兄貴からアルツハイマーを患ってる遺された父親の件で電話があり、
母親が父親の介護をしながら住んでいた市営住宅築2年家賃2万5千円の格安物件に親父を看ながら住むのはどうか?との提案があった。
それは俺も考えていた件で親父を看たいこともあり、条件さえ揃えばそうしたいなと思っていた。
現在自分の住んでるアパートでは親父を看ることは不可能。
(俺にとって)身分不相応な家賃とアパートの2階ということがネックなのです。
しかし兄の言い分はこうだ。
「即準備を始める。そしてお前は介護の仕事に就いて(今の食品卸売会社から転職して)親父を毎朝そこに送っていき、用事がある場合はそこに親父を預けてから行く。女性との出会いも介護スタッフに(女性が)大勢いるから問題なし。給料も介護の仕事に就いてるマラソン仲間で年間120日休めてマラソンという趣味に没頭できる経済的にも余裕がある人が来ている。だから介護職に転職しても生活レベルは最低でも市内のサラリーマンの平均的な水準程度は確保できるはず」
というものでした。
非常にアバウトな提案な割に即行動をとれと。
たとえ父親を看たいという願望があったとしてもそれで誰が動くのだろう。
いやしかし、今まで両親の世話をみていた兄夫婦である。
無碍にするわけにはいかない。
結果的には
「即行動をとることは難しい。でも兄の提案には感謝してます。」
というこちらの気持ちを伝えてとりあえずその場は収まったわけですが。
いやはや昔から、兄の提案には無茶ブリが多い。
なりふり構わず「その会社入れあの会社入れあそこへ引っ越せこっちへ引っ越せ」は常套手段である。
俺はそれらをことごとく、当然ながら断ってきたので
「あーあいつはやはりなんだかんだ言い訳して理屈をこねて動かないダメなやつだ人間のクズだ!」
と思われてることはまず間違いなく、今回の親類縁者の集まりでもそういう評価を彼らに伝えていた可能性は大いにある。
まぁこんな調子で今回死んだ母の亡骸の発見が遅れた原因ともリンクしていくわけです。
はじめは「家賃2万5千円の築2年市営住宅」の線のみ(WIN-WIN)で攻めてこられたら心は大きく揺らいだのに。
それで引っ越しを完了し、いい加減落ち着いてからの次の一手で兄夫婦の思惑はほぼ達成できたであろうに。
たとえ結果的に俺が騙された(WIN-LOOSE)としても、段階的であれば痛みも和らぐと思う。
母の告別式を終えて。
今日はもう嗚咽の発作はないと思ってたら、告別式が終わり精進落としを始める前の親父の弟=オフクロの義弟にあたる叔父の献杯の挨拶で涙腺崩壊。
その精進落としで出た料理も食欲が無く手付かずだったため、家に持って帰って来て先ほど食べ終えましたが、「いただきます!」と手を合わせ、食べ始めから終わりまで生前の母に対する己の至らなさに許しを乞いつつ感謝の言葉を述べつつの嗚咽タイム。
明後日から大丈夫なのか...
-追記- 12月3日(火)5:41
何よりも睡眠時間の少なさが心配。
嫁が家から出て行った時も眠る事ができなくなった。
強い心的ストレスを受けると不眠症に陥る傾向があるんだな。
昨日の二十三時頃就寝、夜中の一時に目が覚めて現在5:41。
目を瞑って布団かぶって横になってるだけでもこうして起きてるよりはマシなのだろうか。
葬送セレモニーの意義。
火葬、通夜が終わった。
兎にも角にも病的な発作は収まりそうな気がしています。
遺族、親族が集まってセレモニーを催す意義を初めて実感した気もする。
今回、「母親の死」を検索ワードにして色々調べたけど、やはり鬱傾向になってる方多いですね。
いや、でも明々後日から社会復帰しなくちゃならないので、それまでに精神状態をフラットにせにゃならん。
仕事中の発作も怖いし。
明日、告別式。
「悔い改めよ」とは、宗派抜きにして単純に社会の摂理なのだろう。
兄夫婦が母逝去前に父母宅に持っていって大量に残ってた食糧のお裾分けを昨夜いただいたけど、そん中に卵10個入りが。バイクの荷物入れボックスだと割れるリスクを恐れて、あと単純に嵩張るので購入しないんです。でもつい最近オムライスやチャーハンを無性に食べたくなってて、それでも上記理由で買ってなくて。母が死を賭して俺にもたらしたもの。
もう一点。今日ようやく焼香に行けたんだけど、葬儀会社の案内係が高校の同級生。サッカー部。33年ぶりに会った。そう言えば今日は友引だったな。母が死を賭して俺にもたらしたもの。
そしてこんな風にインパクトのある死に方でもしない限り兄貴も俺も残された親父をまともに看る事はないだろう。目を覚まさないだろう。母が死を賭して俺にもたらしたもの。
明日通夜。